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シンプルとエンプティ [  読んだ本・観た映画]

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最近は、花火大会や盆踊り大会のためか、浴衣姿の人をよく見かけます。
その中には、独自の感覚でコーディネートしている人も。
頭にコサージュのような大きな造花を着けていたり。
耳より大きいイヤリングをしていたり。
「簡素さ」を大切にする日本的な美意識とはちょっと違うような。
「ゴージャス感」を重視する西洋的な美意識に近いのかしら?
私は、浴衣の柄が大きくて派手なら、頭はコンパクトにまとめたい。
そうしないと、メリハリがなくなってしまうと思うのですが。
今の日本人の生活スタイルは完全に欧米化しているので、西洋的な美意識が高い人が段々と増えているのかもしれませんね。

一方で、現代の生活では「シンプル」も重要なキーワード。
シンプルな生活をしていれば、日本的な美意識も保てるのかしら?
と思っていましたが、↓この本によればそれはどうやら違うらしい。

日本のデザイン――美意識がつくる未来 (岩波新書)


「シンプル」と、日本文化の美意識の真ん中あたりにある「簡素さ」は、成り立ちが全く違うのだそうです。
私なりに要約すると、

「シンプル」が現れる前は、「力」によって統治されていた時代で、物は「力」の表象だった。王の椅子は王の権力を表現するため豪華絢爛に装飾されていなければならない。簡素さは力の弱さとしてしか意味を持ちえなかった。しかし、近代社会の到来によって、物が「力」を表象する必要はなくなり、椅子は「座る」という機能を満たせばよくなった。形態と機能の関係は率直に計り直された。つまりシンプルという概念は、権力と深く結びついた複雑な紋様を近代の合理性が超克していく中に生まれてきた。

一方、日本の「簡素さ」が生まれたのは、応仁の乱後。長次郎の楽茶碗(→)や、今日の和室の源流と言われる足利義政の書院・同仁斎にある「簡素さ」は、かたちの合理性を追求した成果でもなければ偶然の産物でもない。「なにもない」(エンプティネス)ということが意識化され、意図されている。なにもないことは、人の関心を引き込む求心力として働き、受け手に積極的なイメージの補完をうながす。このような美意識が生まれた背景には、蓄積されてきた日本文化が応仁の乱によって完全にリセットされるほどのダメージを受けたことがある。失われた華美な装飾をなぞり直し復元するのではなく、むしろ究極のプレーンをもって絢爛さに拮抗しようとしたのではないか。

足利義政のような最高権力者が、「簡素」な美を生み出しているところが日本のユニークなところ。
しかし、究極のプレーンで絢爛さに拮抗しようという発想が面白い。
どういう頭をしているのでしょうか?
贅沢を極めた人だからこそ到達できる境地なのかしら…

日本の美には、「侘び寂び」もあれば、琳派のような豪華絢爛なものもあります。
でも、琳派にとっても「エンプティネス」は大事な要素なんでしょうね。
俵屋宗達の「風神雷神図屏風」も、尾形光琳の「燕子花図屏風」も、余白が目立ちます。
尾形光琳の「紅白梅図屏風」は、余白は少な目ですが、画面からはみ出している幹や枝が、人の関心を引き込む求心力として働いています。

現代社会では、左右対称など西洋的な美意識がふさわしい場所も多いですが、せっかく日本に生まれてきたので日本的な美意識も大切にしたいです。
次は、琳派の美意識に関する本を読みたいな。

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